映画『アメリカン・ユートピア』の覚書

 昨日、メトロ劇場で『アメリカン・ユートピア』を観た。あまりに素晴らしく、久々にパンフレットを購入した。パンフレットのコラムや、Web媒体でも論考があり、その中で、もう少し言及されてもよかったのではという作中でみられた社会学的視点からの感想を書いておきたかった(超絶ネタバレ注意)。

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 この『アメリカン・ユートピア』のステージは、デヴィット・バーンの現在の思考や考えを、デヴィット・バーン当人によって実況中継的に表現されたものだと感じた。彼を含む演者の国籍、人種や男女比の構成(後述の通りアジア系はいなかったのだけど)、有権者登録の呼びかけ、移民について・自己変革の必要性についての言及、そしてこの作品のハイライトでもあるジャネール・モネイの”Hell You Talmbout”のカバーなど、政治的、より厳密にいえば、アイデンティティ・ポリティクスを範疇とするトピックが多く占められていた。

 まず、彼の歌詞に注目すると、ジェンダーに言及する歌詞は、ヘテロノーマティヴかつ記号的なものがある。”boy”は”woman”に惹かれ(”Toe Jam” 2009)、”woman”は”wife”になって、彼女らの心情はいざ知らず、”wife”に縛られる”man”の心情を吐露するものもある。(”Once in a Lifetime” 1981)しかし、”Everybody’s Coming To My House”(2018)は、本人の言う通り、インクルージョンがテーマであることもあり、登場する人称代名詞が、”I”,”you”,”we”,”they”,"everybody”であることからもわかるように、男女というバイナリーな性別の呼称は消失している。実際、2018年にリリースしたアルバム『アメリカン・ユートピア』に、女性アーティストが一人も参加していなかったことに対し、彼はインスタグラムで謝罪文を掲載している。

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映画の中で、バーンは黒人の作家ジェームズ・ボールドウィンを引用し(たぶん「この国(アメリカ)にはかなり多くの変革する余地が残されている」という言葉だった気がする…間違っていたらご指摘いただければ幸いです)、自己変革の重要性を説く。ヘテロセクシャルかつシスジェンダー男性として、歌詞の世界観に反映してきたヘテロノーマティブな規範や、自身の音楽活動の中でとってきた女性に対する態度を自己変革することを、他者とのつながりの中で体現する姿勢がうかがえる(なので、クィアに対する言及や意思表明がなかったのが個人的に残念だった)。

 しかし、前述したような政治的トピックについて触れつつも、彼がそれらを語る動機は、怒りではない。あくまでも、現状をよりよいものにしたいという意思である。ジャネール・モネイの”Hell You Talmbout”をカバーする際、バーンは、モネイに「年配の白人男性が歌う資格があるのか」とモネイに直接許可をとったという(それに対するモネイの返答は「全員に歌える歌だと思う。」というもの!)。なぜなら、この歌は、Walter Scottから始まる、警察権力の中に根付く黒人差別あるいは白人至上主義によって不当に命を奪われた犠牲者の名前を挙げ、”Say her/him name!”とコール&レスポンスを行う「黒人によるプロテスト」の要素が多分に含まれているからだ。

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 一方、このバーンの言葉にあらわれているように、彼が占める社会的位置は、白人男性であり、白人男性がメインストリームである音楽業界の中で、アメリカのみならず、世界的成功をおさめることができたというポジションである。その中で、彼が意識的か無意識的かにかかわらず捨象してきた、抑圧を受けているアイデンティティを持つ者、あえて挙げるとすれば、「黒人」や「女性」のような存在に対する視線を、彼は現在でも完全には向けることができていないといえる。パフォーマーの中にアジア系のルーツを持つ者がいなかったことはその一例として挙げることができる。しかし、成功した白人男性という位置を占め、不可視となっていた存在を、自身で可視化する試みを自らの言葉で表明し、そのためにも、多種多様な他者の存在および彼らとのつながりが必要なのだと言い切る姿は、彼に向けられるであろう安直な世代論を退け、自身の視野を広げながら生きようとする意志次第で、自己を変革できることを体現しているといえる。

 このバーンの姿を撮影したのが、スパイク・リーである。バーンの思考と感情が現在進行形で表現されたステージに、さらなる解釈の奥行きを与えたのは、彼の監督としての資質であるところが大きいと私は感じた。

 特筆すべきは、ステージの後半から、リーは積極的にステージを多角的に撮影し始めた点である。ステージの真上からパフォーマーを映し、カメラは観客にも向かっていく。前半はバーンのステージを観客の視点かつ、パフォーマー一人一人の動きや表情、彼らの縦横無尽に自由かつ整然と一体で動く姿、つまり彼らを最大限魅力的に見えるようキャプチャし、ショーとしての側面を引き立てているように見える。しかし、特に”Born Under Punches”からはステージを正面ではなく、天井から垂直にカメラをおろし、パフォーマーのステージ上の移動を映し、ステージからみた観客の姿を映すなど、画面のカット割りが激しくなっていく。それに呼応するように、バーンの歌詞と語りから放たれるメッセージが、過去から現在と未来へ向かう転換点を示唆しているようだった。この映画が撮影されたのは、2019年であるが、奇しくも、“Born Under Punches”の”All I want is to breathe”という歌詞は、昨年のBlack Lives Matter(BLM)が興隆する契機ともなったジョージ・フロイドの遺言、”I can’t breathe.”と重なった。

 ”Hell You Talmbout”では、亡くなった黒人たちの一人一人の写真を、遺族がかかげるシーンがパフォーマンスの合間に挟み込まれ、赤く太い字体で彩られた被害者の名前と生年月日、死亡した日付が画面を埋めつくす。歌唱していた黒人パフォーマーたちの”Say her/his name!”のシャウトや表情からも、黒人というアイデンティティを持ち生まれた者が共有する怒りの体験と、状況を希望に変える可能性を信じる心情が重なっているように感じられたのは私だけだろうか。リーは、バーンの「未来に希望を見出そうとする年寄の白人男性」というポジショナリティに、黒人という当事者性、そこにある湧き上がる怒りや抵抗と未来を変えられる確信を”Hell You Talmbout”に接合し、バーンの”Possibility”を信じるというメッセージへの共感と、鑑賞する我々に、それを信じさせる説得力を与えることに成功している。

 バーンは、自身の特権的立場に向き合い、よりよく生きるための自問自答と他者とのつながりを模索し、対し、リーは理不尽に黒人の命を奪う者(それはシステムであり、人である)への怒りと、その状況を改善できるという可能性の意思をもつ。しかし、両者に共通しているのは、未来への可能性を心から信じる意思である。ステージを通して、またステージを撮影することで、バーンとリーによって託される自己変革と未来の可能性を信じるメッセージに対し、どのように我々は応答できるのか。全世界の人々に有権者登録を行うことを最後に改めて映画『アメリカン・ユートピア』は呼びかけたが、鑑賞した人の分だけ、応答の数は用意されているのである。

American Utopia on Broadway (Original Cast Recording Live)

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